翻訳と辞書
Words near each other
・ コンラン
・ コンラン卿
・ コンラージ棒
・ コンラース・カレーイス
・ コンラーダ (小惑星)
・ コンラーツロイト
・ コンラーディン
・ コンラーディン家
・ コンラーディン朝
・ コンラート
コンラート (イタリア王)
・ コンラート (シチリア王)
・ コンラート (ブルグント王)
・ コンラート (ライン宮中伯)
・ コンラート (ロートリンゲン公)
・ コンラート1世
・ コンラート1世 (シュヴァーベン大公)
・ コンラート1世 (ドイツ王)
・ コンラート1世 (ニュルンベルク城伯)
・ コンラート1世 (ポーランド王)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

コンラート (イタリア王) : ミニ英和和英辞書
コンラート (イタリア王)[おう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

コンラート (イタリア王) : ウィキペディア日本語版
コンラート (イタリア王)[おう]

ドイツ王およびイタリア王コンラート(Konrad, 1074年2月12日 - 1101年7月27日)は下ロートリンゲン公(在位:1076年 - 1089年)、ドイツ王(在位:1087年 - 1098年)、イタリア王(在位:1093年 - 1098年)。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の次男。母親はサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタ。
父ハインリヒ4世の長男は早世しており、コンラートは実質的な長子として育ち、1075年末にゴスラーで開かれた宮廷会議において次期国王に定められている。1076年、下ロートリンゲン公ゴットフリート4世が死去した後に、父皇帝より下ロートリンゲン公とされた。1077年1月、父ハインリヒ4世は、聖職叙任権を巡って争ったグレゴリウス7世に破門解除を願うためカノッサ城に赴いたが(「カノッサの屈辱」)、当時2歳のコンラートも母ベルタとともに同行している。1087年5月30日、コンラートはアーヘンにてドイツ王として戴冠された。1093年、コンラートは父皇帝と敵対関係にある教皇側のトスカーナ女伯マティルデからカノッサに招待されたが、その時にマティルデに説得され、コンラートは父皇帝から離反し改革的な教皇ウルバヌス2世側についた。そして同年、モンツァの大聖堂にてミラノ大司教よりイタリア王冠(ロンバルディアの鉄冠)を受けた。皇妃エウプラシアも義子コンラートのいるカノッサ城へと出奔、皇帝に叛いた。しかし、コンラートは皇帝を称したものの、領土も収入も居城もなく、しばらくは各地の領主の城を転々としていたが、ようやくボルゴ・サンドンニーノ城に落ち着いた。1095年4月、教皇ウルバヌス2世がクレモナを訪れた際にはコンラートが出迎えたが、その時、父皇帝も教皇に恭順の意を示し、これに対して教皇は聖職叙任権を皇帝が放棄するかわりに皇帝位のコンラートへの継承を約束した。しかし、1098年、皇帝ハインリヒ4世はマインツで帝国会議を開催し、コンラートのドイツ王、イタリア王位を剥奪し、三男ハインリヒ(後のハインリヒ5世)に王位が与えられた。後に、コンラートは父皇帝に叛いたことを後悔したが、1101年フィレンツェで没した。
1093年に、教皇ウルバヌス2世の仲立ちによりシチリアルッジェーロ1世の娘コンスタンツェと結婚したが、二人の間に子はなかった。
== 参考文献 ==

* 成瀬 治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コンラート (イタリア王)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.